Top Interview
永橋あゆみ/谷桃子バレエ団プリシパル
「谷桃子バレエ団のカラーを 大切にしてゆきたい」
2024' Dec. Vol.113
Dancers Web トップインタビュー
― バレエを本格的に学びたい思いから、山本禮子バレエ団附属研究所に中学一年の夏から入所されたそうですが、まだ13歳で親元を離れてまでも、バレエを深めたいという強い意志をお持ちだったんですね。
踊りをはじめたきっかけは母親でしたが、母は創作バレエの分野だったので、クラシック・バレエを一から学びたいとどこかで思っていたんだと思います。そんなとき、大阪に住んでいる幼馴染地が神戸のコンクールで賞を取ったことがきっかけで、私も本格的にやりたいと意識しはじめました。
踊りが大好きだなと自覚したときは、3歳のとき発表会です。スキップができないことが悔しくて、できるまで練習しました。もしかしたら小さい頃から目的意識が高かったのかもしれないですね。
― 学生のときにバレエ以外で熱中したものはありますか?
バスケットボールにも熱中しましたし、中学のときはテニス、足が速かったのでリレー競技にも出場したり、スポーツは全般的に好きでしたね。
― 実際、山本禮子バレエ団附属研究所に入られていかがでしたか?
研究所に行ってはじめて、本格的な「クラシック・バレエ」を目の当たり前にして、自分は井の中の蛙だったんだなと実感しました。それでも続けたのは、自分から行くと言い出しましたし、家族も応援してくれていたので、簡単にあきらめて帰りたくなかったという思いが強かったですね。
― 高校時代は、半年辞めていたバレエを復活して、佐賀県の野村理子バレエスタジオで学び直されています。このときからプロのダンサーになるという思いがすでにあったのでしょうか?
はい、そのときからありました。バレエを辞めて半年間、普通の高校生活も楽しかったんですが、やはりバレエから離れた生活が恋しくなりました。それで、週末泊まり込みでレッスンに通うようになりました。
― 高校卒業と同時に谷桃子バレエ団に入団されて、約3年後に『白鳥の湖』で主役デビューされました。
じつは、4年経ったら実家に帰って母のバレエ教室を継ぐつもりだったんです。母は本公演の前に上演された学校公演の『白鳥の湖』を観に上京してくれました。
でも、「あんな出来では真ん中は務まらないわよ。3か月後にダメだったら、実家に連れて帰る」と言われました。
― 3か月後は本公演の上演ですね。もし「ダメ」と言われたら辞める覚悟だったんでしょうか?
実家に帰るかどうかというのは考えずに、とにかく舞台に向けて必死でした。
終演後はやりきった感はありましたが、まだまだだなと足りない部分を自覚しました。
母は、「成長を感じたし、やってみなさい」と認めてくれましたが、それ以降、2年間は役が付かなかったんです。
― その2年間は、辛い思いがありましたか?
尾本先生から「よく腐らず頑張ってこれたわね」と言われたことを覚えていますが(笑)、なぜ私が主役でないんだろう、とは全然思わなかったですね。これが今の私の最善だから、これで結果を出そうと思っていました。
主役でなくても、役を与えてもらう喜びの方が大きかったですね。ただ純粋に、バレエが好きだったんだと思います。
どんな役かということより、学ぶことが本当に多かったです。色々な先生に気にかけていただきましたし、高部先輩からも可愛がっていただいて、厳しいことやアドバイスもたくさんいただきました。憧れの先輩についていきたい一心でした。
― それ以降24歳からずっと主役を踊っていらっしゃって、どのようにプレッシャーと向き合って来られたのでしょうか?
プレッシャーの前に、とにかく集中する意識の方が強かったと思います。
今の方がプレッシャーありますね(笑)。プリシパルは踊れて当たり前ですし、以前のようには踊れない部分もありますし、後輩を引っ張っていかなくてはいけない役目もあります。
― バレエ団在籍中の2012年に、ドイツ・ドレスデン国立歌劇場に1年間研修生として留学されています。50公演近く出演されたということですが、もっとも印象に残る舞台はありますか?
ウィリアム・フォーサイス振付の『アーティファクト』という作品ですね。まず身体の使い方が全然違う。もちろんバレエが基本ですが、いかに大きく見せるか、全身を使わないと踊れない。それからだいぶ意識が変わったと思います。
― 谷桃子バレエ団の舞台ではどうですか?
2004年の「ジゼル」です。すごく不思議な経験をしました。
「ジゼル」2幕の冒頭のアダージオのシーンから、自分の踊っている姿を上から観ていた自分がいました。身体が軽くなって、いつまででも踊っていられると思いました(笑)。2幕が終わるまでずっと続き、まるでゾーンに入ったような何とも言えない感覚でした。
― ほかのバレリーナからも、同じような体験があった話を聞いたことがあります。貴重な体験ですね。
それ以降はありませんけど(笑)。
― 2022年に出産されて、2024年1月に『白鳥の湖』の主演で復帰されました。その前と後とで踊りや表現力の変化を感じていらっしゃいますか?
パを出す前に、気持ちが先に入るようになりました。以前から、谷桃子先生に「動きはいいんだけどね……」と言われていて、自分でも色々模索していたのですが、一つひとつのパの意味が以前より分かるようになりました。
― その2日前の舞台リハーサルでは、足の指の激痛でグラン・フェッテがいったん止まってしまった状態でした。
4回目にダブルを入れたかったのですが、その瞬間、足の指に電気が走って力が入らなかったんです。シングルだったら絶対やれる。でもダブルは無理かもしれない。
作品のことも考えると、自分の気持ちだけで押し切れないし、私だけの問題ではないので、すぐ気持ちを切り替えました。
― その数秒間、周りの空気も止まった感じで、どうするんだろうとドキドキして見ていました。
先輩から「プリマは孤独との闘いよ」とずっと教えられてきましたし、闘うしかない(笑)。
― 本番では見事すべて踊り切りました。カーテンコールでは涙しているようにも見えましたが、終演直後どのような感情でしたか?
「無事終わった」(笑)。この舞台で『白鳥の湖』の全幕は最後と決めていました。
一番大好きだけど嫌い(笑)。『白鳥』はとても深くて難しい役ですし、体力的にも厳しい。
今回この役をいただいたとき、出産でブランクがありましたし、踊り切れるのかと悩みましたが、デビューも復帰舞台も『白鳥』なので、とても縁がある作品です。もう一度踊ろうと決意しました。
― 永橋さんにとって、バレエダンサーとしての「美学」とは?
美を追求していくこと。バレエには、これでいいという正解がない。自分のイメージや努力次第で変われる、変化してゆくもの。終わりがない芸術です。
― 2025年1月公演は『ラ・バヤデール』でニキヤに主演されます。本公演への思いをお聞かせください。
『ラ・バヤデール』も大好きな作品で、ニキヤをどうしても踊りたかった。先ほどのお話で、どんな役でも与えてくださった役に意欲的に取り組んできましたが、このニキヤだけは、谷先生に直接聞いたことがあります。そうしたら、「あゆみちゃんはまだ若いから」と一言(笑)。谷先生はイメージを大事にされますし、ニキヤは成熟した女性ですからね。
― そして今回、ニキヤを踊るのは何回目になりますか?
4回目になります。足の痛みへの不安もありますが、大好きな作品の一つなので、気持ちを込めて楽しみつつ、深みを増した表現力が出せればと思います。
― ソロル役は、長年ダンスパートナーとして組まれている今井智也さんですね。
踊りに香りがある色気のあるダンサーです。ノーブルな表現ができて、サポート面でも安心できる。これからいっしょに創り上げていくのが楽しみです。
― 谷桃子バレエ団の裏側を見せるyoutubeチャンネルは大きな話題となっていますが、周囲からどんな声が届いていますか?
ほかのバレエ団のダンサーからは「頑張ってるね」と励まされたり、一般の方からはスーパーや電車内で「応援してます」と声をかけてもらったりして、有難いことです。
― 今後、挑戦されたいことや展望についてシェアしてもらえますか?
谷先生から教えてもらったことを、後輩たちに踊りで見せて伝えていきたい。ダンサーを引退した後は、言葉を使って指導していきたいです。谷桃子バレエ団のカラーを大切にしてゆきたいと思っています。
谷桃子バレエ団『ラ・バヤデール』
2025年1月18日(土)、19日(日)東京文化会館大ホール
https://www.tanimomoko-ballet.or.jp/LaBayadere2025/#ticket
【永橋あゆみプロフィール】
長崎県出身。永橋由美、山本禮子、野村理子、多々納みわ子に師事。1999年谷桃子バレエ団に入団。2002年「白鳥の湖」にて主役デビュー。以降「ジゼル」「ドン・キホーテ」「ラ・バヤデール」「リゼット」「海賊」等、団の全レパートリーにて主役を踊る。2004年ルーマニア国立バレエ団の招待を受け「ジゼル」主演。2007年、2009年日本バレエ協会主催都民芸術バレエフェスティバル「ジゼル」主演。2012年歌手AI『INDIPENDENT WOMAN』PVに出演。平成24年度文化庁新進芸術家海外研修員として渡独、ドレスデン国立歌劇場にて多数作品に出演し研修を積む。2017年Primorsky Stage of Mariinsky Theatre 「眠れる森の美女」全幕にてゲスト主演。2019年の吉田都引退公演「ラストダンス」出演。2015年洗足学園音楽大学バレエコース非常勤講師就任。